昨年テレビドラマ化された 『銀漢の賦』 の著者葉室麟の随筆集 『柚子は九年で』 の中で、三国志の英雄曹操の詩の一説が紹介されている。
老驥は櫪に伏して 志は千里に在り 烈士は暮年にして 壮心已まず ・・・・・馬小屋の床に寝たままになっている老いた駿馬は、夢の中で千里を走っている。烈士は晩年になっても勇壮な心が消えない・・・・・ということらしい。
なるほど、男たるものこの世に生を受けたからには、かくあらねばならぬ・・・・・とは思うのだが、老い先短い私には、過去を振り返って感慨にふけっている余裕など全くない。ましてや自分のこれまでの努力不足を反省するなどもっての外であると思う。
老いた駿馬が千里を走る可能性は、全くのゼロである。しかし、老い先短い私がジャンボ宝くじに当たる可能性は限りなく低いとはいえ、1000万分の1くらいは間違いなくある。図らずも当選といいう時は、泰然とその現実を受け入れ、大量の現金と共に生きる道を模索しなければならない。これはこれで大変だとは思うのだが。
2016年10月31日月曜日
2016年10月26日水曜日
木之本町邦楽器原糸製造保存会
富山県が出身の母は、小さいころによく 木之本の地蔵さん の話をしてくれた。どうやらこの木之本の地蔵さんは声を出すらしいのだが、話の詳細は忘れてしまった。当時は木之本町がどこにあるかもわからないまま聞いてはいたが、中学から高校にかけて父親の仕事の関係で滋賀県の北西部に住むことになり、地図の右上、滋賀県の北東部にその町があることを知った。
実際にその時宗の寺、浄信寺、木之本地蔵院を訪ねたのは成人してからのことで、その規模の大きさと、7世紀天武天皇の時代の創建と知って驚いたのを覚えている。
その木之本町から前橋に、邦楽器に使う絹の原糸製造保存会の人々が訪れ、繭から糸を手繰りだす実演が披露された。
ヤマダグリーンドーム前橋サブイベントエリアで開催された『日本の技体験フェア』。やけに駐車場が一杯で車を止めるスペースが足りず、河川敷の駐車場に止めて歩く・・・・・風が強くてけっこう辛い。なんのことはない、日曜日、前橋競輪の開催と一緒で車が一杯だったことに気付く。
おばちゃんが、鍋の中で茹でられた繭から糸を手繰りだす。最後に残った薄膜の中にある蛹は乾燥させて粉末にして魚釣りの餌にもなる。スズメバチの幼虫のようにたべられるかどうかは知らない。
実際にその時宗の寺、浄信寺、木之本地蔵院を訪ねたのは成人してからのことで、その規模の大きさと、7世紀天武天皇の時代の創建と知って驚いたのを覚えている。
その木之本町から前橋に、邦楽器に使う絹の原糸製造保存会の人々が訪れ、繭から糸を手繰りだす実演が披露された。
ヤマダグリーンドーム前橋サブイベントエリアで開催された『日本の技体験フェア』。やけに駐車場が一杯で車を止めるスペースが足りず、河川敷の駐車場に止めて歩く・・・・・風が強くてけっこう辛い。なんのことはない、日曜日、前橋競輪の開催と一緒で車が一杯だったことに気付く。
おばちゃんが、鍋の中で茹でられた繭から糸を手繰りだす。最後に残った薄膜の中にある蛹は乾燥させて粉末にして魚釣りの餌にもなる。スズメバチの幼虫のようにたべられるかどうかは知らない。
深谷を行く
平清盛の異父弟、薩摩守忠度。吉川英治作、新平家物語(新潮文庫)鵯越の巻に、『熊野育ちの美丈夫である。黑糸おどしの鎧に、赤地錦のひたたれ、白月毛の駒、遠雁の紋を打った鞍にまたがり、兜はかぶらず烏帽子姿・・・・』 源平一の谷の合戦の場においても眼につく風貌の持ち主と語られる。
歌人藤原俊成に師事した歌人としても知られ、千載和歌集の『詠み人知らず』、さざなみや 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの やまざくらかな は忠度の作として知られている。
一の谷の合戦で坂東武者、岡部忠澄六弥太に討ち取られた際には、その箙から出てきた、ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよいの あるじならまし という歌で忠度の身元が割れている。武勇もさることながら、歌人としても優れていることは、後の勅撰和歌集に10首以上の歌が取り上げられていることでも明らかである。
さて、その薩摩守忠度の墓、遠く坂東の地岡部にあるのは、一の谷で忠度を討ち取った岡部忠澄が慰霊として建てたもの。一の谷以降の恩賞と名声による一族の繁栄に対する感謝の念もあったのだろうか。
歌人藤原俊成に師事した歌人としても知られ、千載和歌集の『詠み人知らず』、さざなみや 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの やまざくらかな は忠度の作として知られている。
一の谷の合戦で坂東武者、岡部忠澄六弥太に討ち取られた際には、その箙から出てきた、ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよいの あるじならまし という歌で忠度の身元が割れている。武勇もさることながら、歌人としても優れていることは、後の勅撰和歌集に10首以上の歌が取り上げられていることでも明らかである。
さて、その薩摩守忠度の墓、遠く坂東の地岡部にあるのは、一の谷で忠度を討ち取った岡部忠澄が慰霊として建てたもの。一の谷以降の恩賞と名声による一族の繁栄に対する感謝の念もあったのだろうか。
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