2018年5月31日木曜日

二つの酒宴

 一つ目は、没後10年、いま甦る池宮彰一郎という帯のついた角川文庫の中から、『四十七人の刺客』の中に描かれた酒宴。作者の池宮彰一郎は、司馬遼太郎作品との類似性や盗作問題で姿を消した作家で、一時期その作品も店頭から消えたものの、再び入手可能となった。生意気な読後感想だとは思うが、文章に独特な品格があり、その中で淡々と描かれる大石内蔵助の実像はこれだろうと思わせるほどに新鮮である。

 さて、その酒宴、場所は赤穂藩の町屋。時の藩主は浅野内匠頭長直。忠臣蔵で有名な内匠頭長矩の祖父にあたる。国替えの後、幕府が課した城構,架橋を終え塩田の開発と新田開発。労役は長く続いたが、長直が中風で倒れるまでの治世で、その成果は赤穂浅野は小身だが裕福であると他藩が羨むほどに上がった。

 藩主長直が逝去した時に、大石内蔵助はまだ14歳。名君の死に、藩は挙げて哀悼の極みにあった。少年であった大石内蔵助は、毎夜回向の読経に暗く沈む我が家に耐えかねて、一夜、喪中の城下町を歩き回った。町屋の5軒、10軒おきに火影が洩れ、人のざわめく気配があった。

 なんの事はない、人々は藩主の死を喜んでいたのだ。赤飯を食い、持ち寄った煮しめや酒肴が並んでいた。これで苛斂誅求もおさまるであろう、めでたい。どの町屋も一緒で塩浜の祝いは特に派手であった。国(藩)百年の大計は、侍と庶民の思考の落差を生んだ。

 もう一つの酒宴は現代の日本で、小説でも何でもない。民主党政権が崩壊する前夜、マニフェストにもない消費税値上げの採決があって、5%から8%に消費税のアップが決まった夜、財務省の役人たちが酒宴を開いた。あまり派手にならないようにという通達も出たらしい。思考の落差というよりも、立場の違いがその酒宴に対してそれぞれと思うこともある。燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやとは言うものの、それが本物の鴻鵠であろうかと思われることがある。


 

2018年5月16日水曜日

千葉 オランダ家

オランダ家 楽花生パイ他
昭和24年創業の、和菓子、洋菓子のメーカー『オランダ家』。千葉市を中心に、40店舗以上を展開している。

 こんな大きな店だとは知らずにいて、地方の小さな洋菓子屋さんだと思っていた。ちなみに、久しぶりに訪れた昨日、よく買っていたブリアンは製造中止になったそうでちょっとがっかり。

 しかし、写真の楽花生パイは健在!楽花生最中と小袖羊羹を買って帰宅。この次はアールグレイロールとガトーショコラを購入予定。6月5日には、ブラウニー・ブラウニーという、ナッツたっぷり、クッキーざくざく、しっとりチョコ生地(¥1380)が発売開始。これはちょっと美味しそう。

 

2018年5月9日水曜日

粋と無粋と野暮(2)

 TVニュースを見ていると、麻生財務大臣の帽子姿が気になる。本人はおしゃれのつもりかも知れないが、どうにもその場にそぐわない。野暮ったいと言うのか、品がないというわけでもないのだが。欧米のニュースか何かで、ジャパニーズマフィアのボスとか言われたり、まぁ猿真似的に評価されたこともあったように思う。

 本人はどこかで『俺は育ちが悪い』と言っているらしいが、確かにどこから見ても悪相という表現がぴったりで、あの悪相はどこからくるものかとその経歴や家族、親族、を見ると、藤原鎌足まで遡れるのではないかという麻生家の筋目の華麗さと、幼少期からの経歴に驚かされる。政治屋として生きることで、その悪習と悪癖があの悪相を形作っているようにも思え、評論家にでもなって、一度悪相を生む世界を俯瞰してみることで本来の筋目の良さが蘇るかも知れない。

 まぁどうにもこうにも悪ぶってみても粋がってみても、野暮は野暮。先生方の好きな表現を借りれば、粛々とその職責を果たすことに全力を傾けた方が、粋とは言われないにしても、野暮だという人はいないと思うのだが・・・・・粛々という言葉には、傍若無人という意味はないということを蛇足として付け加えたい。

2018年5月5日土曜日

粋と無粋と野暮(1)

 難しい定義なのだが、粋(いき)とは、『運命によって諦めを得た媚態が、意気地の自由に生きるのがいきである』・・・・・意味がわからん。この言葉の定義は何と無粋であるのか。粋はあくまでも粋であって、感じるものであって、定義づけに意味はない、と思う。

 江戸時代、吉原は粋を競い、野暮は嫌われた。何を売春屈がその存在と、ありようを語ることが出来るものかというのが当然の主張なのだが、その売春屈の存在が、文化や当時のファッションに与えた影響は大きく、隠された悲劇よりもことさらに文化の昇華に光を当てることは正しくはないとしても、粋と野暮の境界線を探る方法論の一つとして見逃すことは出来ない。そして吉原を題材とした時代小説の中で粋と野暮の境界を伺い見ることも手段としては興味深いものがある。

 粋と野暮の境目はどこにあるのか。その答えのカギは、見栄と張りとストイックであること。一つ間違えると、滑稽の域に達するという悲劇が陥穽として存在することも忘れてはならない。



2018年5月1日火曜日

今年も、『沈黙の春』

ニセアカシア
今年もこの白い花が咲いた。昨年もその前の年も、この花が咲くたびに、この薫り高いきれいな花が特別要注意外来植物であることに疑問を呈してきた。

 この公園には、河津桜、いろはモミジ、西洋紫陽花、ソメイヨシノ、人間・・・外来種は一杯あるのにこの花だけを特別に注意を払わなければならない危険性とは何なんだろうか。Wikipediaによれば、繁殖力が旺盛で本来の植生を乱すということらしいのだが、その本来の植生とは何を指すのだろうか。この公園にはソメイヨシノの大木が100本近く植わっているが、これが本来の植生ではないだろうし、河津桜もであろう。

 さて、そのソメイヨシノやニセアカシアの花を見ていて、毎年不安になることがもう一つ。ミツバチがいない。そう言えば、最近は蚊も少なくなってきているように感じられるし、蝿もいない。ニセアカシアの咲き乱れる公園に季節が巡ってきても、蝶やバッタの姿を見ることが少なくなってきた。どこからやってきたのか、カワウを見ることはあっても、スズメやムクドリ、シジュウカラなどの小鳥も見なくなってきた。