ポルトガルの首都リスボンを訪れた時、友人の持っていたガイドブックを見ながら目当てのホテルに向かった。夕方、そのホテルと思われる場所にあったのは、通りに面した外壁だけ。本当に外壁だけで、後ろはその外壁の倒壊を支える建設資材と空き地。日中はともかく、暗くなって街灯が灯ったとしても反対側の歩道から見る限り建物は存在しているように見える。
スペインのマドリッドも同じで、通りから見える外観は重厚で歴史を感じさせる石造りの建物であっても、一歩ドアを入ると近代的な銀行であったりする。ヨーロッパはどこもそうらしく、第二次大戦の空爆で壊滅的な破壊を受けたドイツのドレスデンの街並みも、気の遠くなるような作業を経たとみえて中世以降の威容が回復されている。他方、区画によっては近代的な建物もビジネス街には成長していた。
ヨーロッパの街づくりの中心は教会であり広場であるが、その植民地となるとまた話は違って、街を政治商業地区と工業地区、住宅地区と区画したりする。もちろん、その他にスラムと言われる先住民の区画も存在する。日本では戦国時代以来の城や寺院を中心とした街づくりがなされるが、城さえあれば、寺院があればということでもないらしく、その地域の城主の人気や家臣団の頭脳の差が街並みに出るようだ。
徳川氏による江戸の街づくりは少し違っていたようで、『江戸にまっすぐな道はない、という。関八州の広野の端、海辺の漁村に平城を構えた家康は、攻め手を防ぐ要害の代わりに土地の起伏や地形に合わせた掘割に沿って町並みを作った。そのため、切絵図では整って画かれている道が、実際にはうねりくねって方角の感覚が微妙に狂う。・・・池宮彰一郎 最後の忠臣蔵』
街並みを作るということは、『意志』が必要だということを言おうとしている。その意思を感じられない前橋。
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