2018年12月6日木曜日

日産とゴーン会長

 幕末、品川の遊郭土蔵相模に伊藤俊介(後の伊藤博文)と居続けた井上聞多(後の井上馨)。その元勲井上馨の姪を母として生まれた鮎川義介が日産コンツェルンの創始者で、日産が長州閥ということは明らかで、この会社が国策的な会社であり、明治、大正、昭和、平成と続く権力基盤の中枢にいたと言って良いだろう。

 もし、という仮定を許されるならば、もしゴーン会長がいなければ、今頃日産自動車という会社が存在したか。複合的な理由はあるにいしろ、日産自動車の経営危機は、この辺りの企業のDNA的なものが遠因と言えると思うのだが、どうにも証明のしようがない。

 このゴーン会長は、多分、日産に来て経営内容を見た瞬間に何が原因かわかったと思う。あとはご存知の通り、いらぬものをバッタバッタと切って落とした。変なしがらみがないだけに、日本人が百年かかっても出来ないであろう改革を、短い期間で達成した。もしゴーン会長に唯一の大きな失敗があるとすれば、肝心な部分を立ち上がれぬ程に完ぺきに潰さなかったことだと思う。その生き残った残党の周到に準備された反乱、復権を願った集団の陰謀ではないかという想像もできる。

 でも、ゴーン会長も人間だから、お金が欲しかったのかなぁ。いずれにしても、日本人と言うのは英雄を生む風土には生きていない。英雄を潰すことに喝采を送る風土がある。語り継がれるためには、悲劇的な死しかない。

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