2020年12月27日日曜日

検察庁の不思議

  黒川弘務元東京高等検察庁検事長、元法務省大臣官房長、元法務事務次官。下世話な言い方をすれば、小便博打でパクられた検事長・・・と言いたいところだが、雀荘などで賭博容疑で捕まった連中とは訳が違う。

 逮捕されることもなく、レートも小さいということで無罪放免。無事5千万とも6千万ともいわれる退職金を受けっとって、退職となった。弁護士資格を剥奪されることもない。今回の審議会で起訴相当という採決が出るまでは、これで落着かとがっかりしたのを覚えている。

 しかし誰も言わないが、不審なことが少々・・・。まずテンピンという賭博レート。簡単に言ってしまえば、千点百円で持ち点が3万点として、ビリになったとしても一回5千円程度。いくら小便博打とは言っても、これくらいのレートなら俺達でもできる。さらにウマ、サシウマとかつけるから、東場南場の半ちゃんで1万勝ち負けってところ。

 黒川は検事長なんだから、これくらいのレートでやるわけないだろう。まぁ相手は新聞記者や接待麻雀得意の奴らだから、1回最低3万から5万以上の金が動いても当たり前だろう。ウマなしの千点千円、これを一般並みにテンピンと言っていた可能性もある。いずれにしても小便博打に違いはないが。記者会見でテンピンと言っていた検事は、金額には触れずに、テンピンとだけ言っていたことがさらに妖しい。この人は、テンピンの意味を知っている。

  もう一つ、検事長ほどの人間が麻雀好きであることを、誰も同僚は知らなかったのか。一度でも同席したことのある同僚はいなかったのか。上記の検事は、少なくとも麻雀はしっている。黒川と『楽しんだ』ことはないのか。テンピンであって、金額的に少ないということを知っているということは、誰かと麻雀をしているはずだ。

 検察庁の偉いさんたちも、PCR検査ではなく、嘘発見器にでもかけて、小便博打の全容を解明して、全部パクられれば、少しはいい検察庁になるかも知れない。まぁ検事様をパクるガッツが警察にあるかどうかも問題だが。

2020年12月25日金曜日

映えるという言葉

  この映えるという日本語を、ばえる と読まれると、その言葉を口にした少女までが汚らしく見えるのはなぜだろうか。私の老いと言われればそれまでで、返す言葉もないが。

 軽井沢は、地元の人は かるいさわ と発音するが、普通は かるいざわ という。さわと言う方が爽やかな風を感じて、あの初夏から梅雨にかけて湿度が高くじめじめとして、また陽ざしが少なく、冬も厳しい住みにくい場所さえも、夏の一時期の高原の爽やかさに包まれているように感じられる。

  ただ単に濁音が汚らしさを感じさせる訳ではないのだろうが、ちなみに、赤ちゃんの命名についての明治安田生命の人気ランキングを見ると、男女とも濁音が混ざる名前は8位の女児ツムギちゃんがあるだけで、20位までは男女共でもこのツムギちゃんだけという結果がある。

 和歌もそうかと思う。Wikipediaで濁音を見ても、答えは見つからない。日本語の清濁をただ濁音だけを取り上げて語るほどの事はないのだろうか。ハケに毛があり、ハゲに毛はないというのも意味はないようで。

 

誰か、トヨタ自動車の社長を何とかしてくれ

  トヨタ自動車のCM、あの現社長のはしゃぎ方は異常ではないか。トヨタイズムの中には、社長の帝王学が欠如しているように見える。業界第二の落ち目の日産自動車は、キムタクを起用してゴーンなき後の盛り返しに必死になっている。

 そこに、下手な英語を駆使して (俺よりは随分とましだが) 、短躯禿頭のおやじが、同じく短躯禿頭前夜の役者を使ってコマーシャル。あの現社長はトヨタ自動車の御曹司でなければ、どう見ても風采の上がらないオヤジ。多分ではあるが幼少の頃より女性にもてるとか、カッコイイなどと言われたこともなく、悶々とした日々を送っていたと思われる。

 目立ちたい、カッコイイと言われたいという思いが、総帥となった今爆発しているように思う。さらに推論ではあるが、本田自動車の本田宗一郎氏や、最近はやりのGAFAの各CEOのスタイルを真似ていて、全てが不格好という所ではないだろうか。

 

 

歌舞伎役者や狂言役者が映画を壊す

   悪いことに、主演片岡千恵蔵と主演八代目中村芝翫の二本を見ることになってしまった。映画『十三人の刺客』の話しである。片岡千恵蔵主演のものは、1963年封切りで、監督は工藤栄一。古いからどうこうではなく、背景やセットなど、当時としては相当大掛かりなもので、また殺陣も見ていて迫力があり、見飽きるということはなかった。

  中村芝翫のものは、2020年のテレビドラマとして製作されたもの。中村芝翫の顔が片岡千恵蔵のように見えるのはなぜかわからないが、異様に頭が大きいように見えた。まぁしかし、この時代にあの殺陣の下手さはないだろう。水谷豊並みと言うか、とにかく歌舞伎じゃないんだから、もう少し練習した方がいいのではと思えた。話し方や表情もどうにも構えているようで演技に味というか、引き込まれるものがない。

  一度書いたことがあるが、まぁ歌舞伎能狂言の世界から映画にという中で最低と言うなら、野村萬斎。和田竜原作の『のぼうの城』で、役処と言うならば酒巻靱負あたりならばまだ良かったものを、最悪なことに主演成田長親を演じることになって、映画は噴飯物に仕上がった。あのキョロキョロと動く目は、とても主人公のでくの坊ぶりは演じきれないし、背が低すぎる。 監督は誰だったろうか、知る気にもなれない。歌舞伎役者や能狂言役者を使う安易さが招いた愚作というべきではないだろうか。

 

 

田舎の風習 

  安倍元首相の桜を見る会の最終的な顛末は、小渕優子の政治資金規正法違反の流れを見れば、容易に想像がつく。小渕優子は、1億円以上の収支記載漏れがありながら、平然と議員を続けている。勿論、その責任を取って有罪になったり、公職を辞めた人間も多い。政治屋の得意技、秘書がやったことで、私は知らなかったとなるだろう。

 小渕優子、元々父親の小渕恵三は郵政族、急逝した際に跡継ぎをと誰もが思ったが、実子は女性二人。周りの親戚一同は、NTTドコモの未公開株を大量に保有していて、身綺麗で親の後を継げるのは政治経験のない小渕優子くらいということで、情けない話だが消去法で選ばれた国会議員。周りを譜代で固めたという点では、安倍元首相とは似た者同士。起こす事件やスキャンダルにも相似性が感じられる。

 さて話は飛んで、今からもう40年以上も前の話し。ある地方の小さな市。この市の市会議員を振り出しに、県会議員から元の出身市長に進んだ政治家がいた。農閑期になると地元の農家の人々は、新宿コマ劇場の観劇や温泉に出掛ける。主催するのは不動産の会社だったり、旅行会社などなど、いずれもその政治家との『付き合い』のある会社で、表向きは現場見学会だったりお得意様へのご招待で、もちろん無料である。しかし招待された人達は、誰が実際にこの旅行の代金を支払っているかを知っている。当然の権利のようにそのもてなしを楽しんでいるのだが、これがある日なくなるとしたら、この議員の得票は他者へと移動するだけだ。暗黙の了解の上に成り立っている観劇会や温泉旅行。その景色の不気味さには誰も気づかない。

 さてさて、再び話は飛んで、豊臣秀吉最晩年の醍醐の花見。この醍醐の花見の5か月後に秀吉はこの世を去る。同じ花見でも本当の天下人が主催する花見と、イモが『募った』花見ではこうも違う。花見に行った山口県民は、その卑しさにも気付くべきだと思うのだが、所詮田舎というものは、こんなものかも知れない。

 小渕優子の他にもう一人、群馬県が生んだ故中曽根首相への評価は少し違う。ある自民党県連の幹部が、ある日ボソッとつぶやいた。中曽根さんは国家には多大な貢献をしたが、地元にはあんまりと言うより何もしなかった。ここに故中曽根首相の凄さと田舎の政治に対する視点を見る。

 県会議員や市会議員ならば地元のために働くのは当たり前だが、いやしくも国会議員と名の付く人間が、地元などという小さなものにサービスしなければならないような状況は、田舎だからという一言で済ませられるものではない。

菅総理大臣、8人での会食の言い訳

  人は成功を収めたその同じ原因で失敗するのではないか。(中略) とすれば、その失敗において、その成功の秘密があらわれることがあるのである。

 これは梅原猛の『隠された十字架・法隆寺論』の巻末の一説。同時に浮かんだのは、田楽狭間で今川義元を討ち取った織田信長。織田信長はこの後も繰り返される数々の戦で、二度と田楽狭間でのような少ない戦力での奇襲作戦は行っていない。天才の天才と言われる人ならではのことだろうか。

 さて凡才の菅首相は、淡々と同じような生活を長年に渡って続けていたのだろうと思われ、また続けていくのだろうが、それを悪いとは言わない。その過程で培われた忍耐力と一貫した精神力には脱帽の思いもある。政治家を目指した時から、頂点を極めるまでの道のりは、なまなかな二世議員の及ぶ所のない苦労や努力と辛抱があったのだろう。

  日本の政治はまた再び金丸・竹下の時代に逆戻りしてしまった。そう思わせる会見内容。国民は何も誤解などしていない。勘違いしているのは菅首相である。麻生大臣は開き直り、橋本五輪大臣は身の程をわきまえていない。大手新聞社もテレビの記者も、記事を取るためのシステムの中で沈黙を守る。首相の宴席に臨席したあの8人と麻生橋本すべてが死に絶えたころに、やっと日本の民主主義が芽生えればまだいい方なのだが。

2020年12月13日日曜日

安倍・菅 両首相の印象

  簡単に言ってしまうと、苦労を知らないと前者になり、苦労しすぎると後者になる。