今何が欲しいかと聞かれれば、金!と即答するだろうが、金があればどうするかと重ねて聞かれれば、答えは自分の浅はかさを思い知るだけのものとなりそうだ。以前読んだ伊集院静の随筆大人の流儀に、ばくち打ちがダメな理由が滔々と書かれていたのだが、ばくち打ちでなくてもそれは当てはまる。要は自分のことしか考えていないということなのだが、自分のことで精一杯と考えれば決して悪いことではないとも思えたとしても、やはりそれは大人の人間ではないということなのだろう。悲しいことにこの年になって、自分のことばかりで他人の為に生きたことなどないと思えるのはちょっと辛い。
禅宗の僧侶が友人にいて、その生活を若い時から少しずつ垣間見ていると、物を持たない、所有しないということに凄さを感じてきた。妻もいない。僧堂の中で修業を積み、その僧堂で20年を過ぎたころに琵琶湖のほとりの小さな寺の住職となった。檀家が少ないので年収は36万円。米や野菜など日常の食材や水道光熱費は檀家持ちと聞いてはいたが、貧しさは感じられずその飄々とした生き方には尊敬の念さえ覚えたものだ。
一度身の回りの物と最低限の食器など残して全ての物を捨てたことがあるのだが、5年10年と経つうちにまたまた荷物は増え、簡単には引っ越しもままならないようになってしまった。それからさらに10年、さてと引っ越しでもするかと思った時には、20年前の状況よりもさらに悪化していることを悟り、いかんなぁとは思っても取り返しはつかない。豊かさとも言えないし、無駄と思うのも癪に障る。 もう一度、使わないものいらないものを整理して、ちょいと身軽になってみるか・・・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿