2016年12月4日日曜日

煙草について

 車の中でも自宅でも、煙草を吸うとその空間全体を汚していくのがわかる。一年もしないうちに壁紙がうっすらと茶色に変化してゆき、換気扇に至っては油と一体化して、掃除などしようものなら新品の雑巾があっという間にどす黒くなってゆく。

 我が家の車は禁煙で、一度成田にある一般の駐車場に一週間以上預けて、空港の到着便に合わせて運んでもらった時に煙草の香りがかすかにしてムカッ腹が立ったことがある。自分で吸っていながら他人の喫煙に対しては寛容ではないわけで、かつて新幹線に乗る時は、禁煙車両に席を確保していながら喫煙のたびに移動したこともあった。あの喫煙車両の臭いは、長旅には決して快適なものではないことも認める。

 それでありながら、紙巻き煙草、煙管で吸う刻み煙草、パイプ、葉巻 (キューバとの国交回復で、高級なハバナ葉が安価に入手できそうだ) と、たき火も含めて大好き人間。これほど世間の風当たりが強いと、禁煙という文字が目の前をチラチラとかすめる時もある。

 司馬遼太郎氏が、『街道をゆく ニューヨーク散歩』で、この国ではダメな奴は煙草を吸うと言われている。私はダメな奴だから煙草を吸うというような事を書いていた。司馬遼太郎氏がダメな奴なら、日本に世界にどれくらいまともな奴がいるのかはわからいが、司馬氏もも含め、チャーチル、吉田茂、愛煙家と言われる人々の存在は、禁煙などという言葉にゆらゆら揺れてしまう自分を叱咤激励してくれるとともに、この本に書かれている、禁煙運動の元祖がヒットラーだという言葉に、極度の嫌煙主義者の異常性に納得するものがある。


0 件のコメント:

コメントを投稿