相変わらず北方謙三の『三国志』を読んでいる。
中国の歴史書三国志は、西晋(265~316)の陳寿により、呉の滅亡280年~297年までの間に書かれ、その中の魏書30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条を、魏志倭人伝という。この三国志の作者『陳寿』は、蜀漢と西晋に仕えた官僚(年譜はWikipediaから)。
魏の曹操(155~220)を多少悪く書くのは、蜀漢の劉備や関羽、張飛、趙雲に対する思いだろうか。曹操の次男曹丕の長男曹叡(魏の第二代皇帝204 or 206年~239年)から、邪馬台国の女王卑弥呼(生年不明 推定死亡年242~248)は親魏倭王の封号を受ける。
広開土王(好太王374年~413年)碑は、中華人民共和国吉林省にある、高句麗第19代広開土王の業績をたたえた石碑。このうち倭に関する記述は、391年(辛卯)、399年、400年、404年。
後漢書巻85東夷伝、建武中元二年(57年)倭奴国が朝貢、光武帝が金印(漢倭奴国王) を与えている。また西暦107年、後漢に朝貢した倭国王帥升の記述がある。
沈約(441年~513年)の宋書列伝第五十七夷蛮伝に 倭の五王から朝貢があった事が記されている。
日本の『大化の改新』 は西暦645年。後漢書東夷伝の建武中元二年から600年近い年月が経過しているが、国外の記録に残るもので、倭と朝鮮半島の出来事は好太王碑くらいしかないのだろうか。
百済、新羅、高句麗、この時代に今の韓国と日本の確執の元があるのでは、といつも思う。枚方市の百済寺、百済王神社、三井寺の守護神新羅明神、(新羅三郎というのは甲斐武田氏の祖で、南部氏が青森に定住し、ここに長者山新羅神社を建立)、埼玉県の日高地方には高麗神社。潰しあう三韓の人達が日本に居住している記録は、日本書紀などにはある。
天智天皇の時代、白村江で日本は大敗する。大化の改新に連なる人々の中で、なぜ蘇我入鹿は悪人にされてしまったのだろうか。
正史と言われるものは、本当に正しい歴史なのか。日本書紀や古事記は嘘のかたまりである、なんて言うと大変なことになるし、ましてや明治、大正、昭和、平成の歴史など、真実を追求すると、触れてはいけない部分が多すぎる。ましてや学校で教える歴史などを鵜呑みにすると、みんながみんな韓国人のようになってしまう。 韓国の人々が答えられない歴史の問題、いつから韓国の人達は中国人のような名前を名乗るようになったのか?
そんな前のことは知らない、と言うのが一般的な答え。中国漢民族だけではなく、モンゴル、ツングースなどの圧迫を受け続けた韓国の歴史は、正視することが耐えられないのではと思うことがある。
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