先日、niftyのニュース一覧にあった東洋経済の記事『お寺の経営が大変』というのがあった。また、最近は継承者がいないという理由で墓じまいが進んでいるというニュースもあった。時代の変化と言う言葉で締めくくるのは簡単だが、仏教も寺も、本来の姿に戻る時だという考え方もあるようで、では仏教の、寺院の、お墓の本来の姿はと問われると、明確に答えられない。
肉山(にくさん)という言葉を御存じだろうか。簡単に言うと儲かっている寺を指す。たくさんの檀家を持ち、住職は高級外車に乗り、愛人を囲い・・・それでもお布施などの所得税や、広大な寺域と建物の固定資産税は無税・・・。全ての宗教法人がこの特権を手放すはずはない。お経を読んで戒名を付けて収入を得るわけだが、その収入に所得税がかからないから丸儲けと言われるのだろうが、これは特権中の特権と言える。
坊主、僧侶と言うのが正式なのだろうか。僧侶が葬式を営むようになったのはいつの頃からか、また一般の人までが墓を持つようになったのもいつの頃からなのか、そして普通の人達までが戒名を持つようになったのもいつの頃からなのだろうか。
特に戒名は許せないものがある。いわゆる院殿大士号、100万からかかると聞いた。ちなみに謀有名寺院の高僧が、『鵞翁若燕居士』という戒名をいたずらに私にくれた。私が死んだときに家族がその旨を僧侶に伝えると、多分がっかりするだろうからと言われている。それほどに、僧侶にとって戒名は儲けの最大の物であることがわかるし、人の死を商売にしていることに腹立たしいものを感じる。寺院の中に塔頭を建てたわけでもないのに〇〇院殿などと付けたり、在家の覚者でもないのに居士などと付けられても有難くもなんともない。戒名を見て、あ~お金持ちなんじゃろなと思う程度である。その人が極楽に行ったかどうかは、調べようがない。
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