と聞かれると困るのだが、では韓国へ行ったことがあるかと問われれば、ある。初めての時は、ソウルから慶州まで高速バス。翌日仏国寺で、イギリスのサッチャー首相とはちあわせ。僧侶とボディーガードに囲まれて、参道を降りてきた。サインしてもらえば良かったなぁと今になって思う。釜山からセマウル号でソウルに戻って、帰国。その次は、韓国人留学生の自宅を訪問。地下鉄3号線?のスーユー駅から徒歩5分。お母さんがキムチを作ってくれて、味見・・・これが美味しい。あの当時、朝鮮総督府跡はあったのか、良くは覚えていない。観光らしい観光はなく、夜の居酒屋、犬の肉・・・ま、日本でも食べたことあるし・・・。帰りにお父さんが、『またきてください』と日本語で・・・3回目はそのお父さんのお墓参り。次は留学生のトラブル等で、その次は、ドイツまでのトランジットで数日、二か月後帰りに数日。その次は今度こそ観光をということで、釜山から慶州仏国寺、セマウル号で大田、ソウル。アマチュア無線の知り合いのタクシー運転手(模範タクシーではない普通のタクシー)には、青瓦台の近くまで連れて行ってもらったり、日本語を話せない通訳とお互いかたことの英語で色々案内してもらったり・・・という程度。知り合いの留学生が、帰国出国の際に軍に届けをしていることが平和ボケしている自分には異様に映り、時に警報が鳴って、交通が止まるという休戦中の国の緊迫感を味わったこともある。
今では差別用語となっているのかどうかはわからないが、群盲象を評すという諺がある。ニュースを見て、本を読んで、観光でちょろりと行ける所だけ行って、少しばかり現地の人と話をしたりで、どうこう言えるものではないのだが、日本を敵視した時の発言が舌鋒鋭くなって、その会話の中で使われる単語が言い方が、想定問答集の答えように同じとなると、教育に問題があるのではと思ったことがある。日本の教育がいいとは思わないのだが。
今韓国についてどう思うかと問われると、色々なことが頭をよぎる。日本のビールは飲まない!なんていうのを聞くと、おいちいよ!って言ってあげたいし、まぁとにかく軟弱なことを言うと、『それは加害者だから言えることだ』とこれも想定問答集のように答えが返ってくる。『侵略者は未来志向と言う言葉を使いたがり、過去を忘れようとする』ものらしい・・・が、この言葉は、実はベトナム政府が、韓国政府(李明博政権のときかな)に対して言った言葉なのだ。別に、一緒じゃねぇかというつもりは、・・・少しはある。
儒教の体系はほとんど知らないが、こんな話がある。江戸末期、アメリカに行った日本人が一番驚いたことは、電気でもないし、蒸気機関でも、武器を含めた最先端の技術でもない。 いい年をした大人がボール遊びをしたり、台所に立って歓迎の食事の手伝いをしたり (もちろん使用人もいて、それなりのことはしているのだが) することだったという。武士の心得としては、あくまでも若い頃から老成することを最善とすることで、支配階級の人間としての基準は、日本も儒教であったことは間違いない。しかし、そこは日本、学問としては受け入れたが、それ以外に庶民を含めた生活規律としては取り入れなかったように思える。良いか悪いかの問題ではなく。
冊封について語られることは少ない。新羅、高句麗、百済の時代は唐、豊臣秀吉の加藤清正の侵攻を止めたのは明、朝鮮戦争の休戦に至る時は中国共産党軍。中国の影響を無視しては半島の安定はなかったわけで、かといって、漢民族以外のより民俗的には近いはずのモンゴル、女真族の冊封には親近感を持ちえないという複雑な感情があるのだろうか。
仏教寺院を破壊したのは、清正であり、朝鮮民族の文化を破壊したのは倭であると言われるが、元(モンゴル)については、あまり騒がないのはなぜだろうか。儒教の下で破壊された仏教寺院も多いはずだが・・・などなど、他国のことを考えるのは、このところの韓国と日本の関係悪化があるからと、暇なせいでもある。韓国はどこへ、もちろん日本もそうなのだが、どこへ向かおうとしているのか。自由ということは言葉では簡単だが、制約のない自由は計り知れない怖ろしさもあり、かといって独裁国家の恐ろしさもある。民主主義も形ばかりと言う民主主義は、偽善国家と言っていい。政権維持のために、選挙を見据えて政策を作り、怒りの矛先を他者に向けて自省を怠ると、大事な基盤を失っていくこともある。
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