2019年7月27日土曜日

重鎮・大御所

 吉本興業のゴタゴタ。いろんなのが出てきて笑ってしまう。お笑い界の大御所が・・・っていうものだから、誰が出てくるのだろうかと思えば、志村けん。まぁ大御所という言葉の使い方も冗談もあるし、しょうがないとは思うのだが、有象無象と重鎮、大御所なんてのが出てくる。徳川家康が隠居したのにあれこれ口出ししたのが悪い例として残っているのかな・・・とは思うけど。もう少しまともな発言をすればいいものを、重鎮大御所という言葉だけが先走る。

 それはともかく、芸人と簡単に言ってはいるが、芸の世界の厳しさは凡人には伺い知れない深さがある。楽器にしても歌舞伎にしてもスポーツにしても、いわゆる名人という人たちは、3歳5歳という時期に始めていることが多い。下記に掲載した『風姿花伝』は、その芸の道の真髄とその厳しさを知る手がかりともなる。


2019年7月24日水曜日

加賀百万石の城下町

 短い時間ではあったが、金沢に滞在した。前回は8年程前だったろうか。北陸新幹線が開通してホテルが増え、平日にもかかわらず町は活気があるように見える。大通りにいると頻繁にバスが発着してゆき、夏休み前というのに観光客も多い。白人のバックパッカーもいて、近江町市場のあたりに外国語が飛び交うなどとは、30年前では考えられなかったように思われる。

 金沢から北鉄で内灘駅まで、金沢駅前から浅野川沿いに北上して同じ道を内灘へ向かう。日本でも有数の豊かな町で、かつて五木寛之の内灘夫人でも有名になった町である。40年以上前には海岸に米軍のトーチカが残っていて、米軍射爆場という物騒な海岸であったのが、商店街や住宅のある海岸線に変わっている。この町に用事があってきたため、街中の観光地には今回も縁がない。

  金沢を単純に前橋と比べることは出来ないが、同じ県庁所在地として見た時には、前橋はあまりにみすぼらしい。高崎と比べても同じようなもので、その歴史の古さと熟成された文化と、新しいものの流入のスピードも金沢の方が断然早い。300年に渡って積み上げられた100万石の豊かさは、これからの100年、200年で前橋が追いつけるものかと考えた時、無理だろうなと思う。

   

2019年7月21日日曜日

サンマが野菜が高くなる。

 今度は『サンマ』。イワシ、サバ(魚へんにブルーと書くらしい)に続いて、ついにサンマも高級魚の仲間入り。めでたいことです。イカなんかは、とっくに高い物になっていて、庶民の味方ではなくなっている。考えてみると、青森県八戸市に住んでいたころは、バスの子供の初乗り料金とイカ1匹の値段が変わらないほどで、箱ごと買って、刺身にしたり、塩辛を作ったり、さらに残ったものは干していたのを覚えている。

 今年の夏は梅雨が長引き、日照時間が平年の2割前後、照らなくても照っても上がるのは夏野菜。雨が降りすぎても上がるし、降らなくても上がる。夏までの間、順調に生育した春野菜や初夏の野菜は安かったので、そろそろかなぁと思っていたら、やっぱり値段は上がり始めた。きゅうりは2~3割増し、茄子も高い。連れ高というのか、ハウス栽培の野菜も上がっている。上がらないのはモヤシくらいか。

 今から何年前になるのだろうか、米が不作で、タイから輸入したりして国産米の入手が難しくなったことがあって、その時に気付いたことがある。別に米を食べずに死んだ人はいない。サンマを食べて死んだ人がいるかどうかは知らないが、サンマを食べないことが原因で死んだ者はいない。ウナギもそうだ・・・野菜不足で栄養が一時的に偏ることはあっても、そのうち季節が廻れば野菜の値段も下がることはある。高いと思ったら買わなければいい。そんな人が増えれば、品物はだぶついて値段は下がる。


2019年7月20日土曜日

クラインガルテン(Kleingarten) 別荘に替えて

 日本語に訳すと『小さな庭』だが、『滞在型市民農園』とも言われている(Wikipedia)。日本のクラインガルテンを検索すると、二階建てのしっかりとしたコテージ様の建物があって、その周りには家庭菜園がある、意外と立派なものが紹介されていて、推測ではあるが、普段の農園管理はここの管理者が行っているのではとも思う。

 ドイツの都市をまわっていると、近代的なビル群や中世の街並みを遠くに眺めながら、50~60坪見当の庭に小さなコテージ(小屋と言ってもいいくらいの)があって、その庭で数人がテーブルを囲んで昼からビールを飲んでいる。もちろん休日ではあるのだが。通常は都市に住みながら、その近郊にクラインガルテンを持って休日を過ごす。行きかえりに時間をかけず、日本のものよりも快適さでは及ばないのかも知れないが、住宅の延長上と考えることも出来るほど簡便なものに思える。

 別荘と言えば軽井沢と思う人が多いだろうが、一般的な人(この定義も問題ではあるのだが)が軽井沢に別荘を持つというのは絶対的に無理がある。年間を通して別荘を維持管理することと、到着から掃除、滞在中の必要なものの買い出し、調理、などを考えると、普段の生活かそれ以上に手間が必要で、それも快適に家事をしなくてもとなると、年間で数百万円以上の出費が問題ない人以外は手を出さない方が無難だ。ましてや軽井沢となると、東京から100km以上。行きかえりと軽井沢街中の季節の渋滞は、ストレス以外なにものでもない。余談ではあるが、軽井沢という所は非常に住みにくい。年間を通しての気温は岩手県の盛岡ほど。5月下旬からは湿度が高く、除湿器をかけ通さなければカビの発生がすごい。木が多すぎるからと言っても、勝手に陽ざし優先で伐採は許されない。明治以降、日本の夏の湿度に辟易したカナダ人が、避暑地として選んだ場所である。故郷のトロントと気候が似ているので、屋根のない病院と言った(Wikipedia)らしいが、私などあの陽ざしの少ない木々に埋もれた場所で生活を続けると、うつ病になりそうな気がする。

 さてと、今年の夏はどうやって過ごそうか・・・これだけ空き家が多くなっているのだから、首都圏といえども、クラインガルテンにできるような田舎はまだまだ残っている。手に余るものを持っている方もいるだろうに、バブル期の値段が忘れられず、背負いこんでいる人もいるのではと思う。なんとかならんかなぁ・・・。

  

 

 

2019年7月19日金曜日

ケント・ギルバートの本

 ケント・ギルバート、末日聖徒イエス・キリスト教会(通称:モルモン教)の宣教師か弁護士と思っていたら、いつの間にかこんな本を書く人になっていた。男子三日会わざれば、刮目して相まみえるべし(・・・刮目して以下は、見るべし、相待すべしいろいろある)。またしても三国志、これは呉王孫権の家臣、呂蒙、魯粛の逸話から出た言葉である。

 こんな言葉を知っていると、昔からの知人に久しぶりに会って、『お前も変わらんなぁ』とか言われるとがっかりするものだが、まぁそれはいい。ケント・ギルバート氏は見事に変わっていた。WGIP:ウオー・ギルト・インフィメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画)を指摘すると、アメリカに帰れなくなるという忠告に、彼は『かまわない』と答えた(Wikipedia) ということに彼の覚悟を感じる。まさに刮目してである。

 この中に、韓国の国技でオリンピックの正式種目となったテコンドーについての記述がある。『テコンドーは日本の松濤館空手から派生した・・・』発祥は1955年、チェ・ホンヒ(崔泓煕)という留学生が日本に留学中に学んだ空手に改良を加えた・・・。これがいつの間にか、空手は韓国が発祥の地で、そのおおもとの伝統あるテコンドーということでIOCに種目としての採用を申請したら、IOCの委員もすっかり信用して採用したらしい。

 まぁそれも、日本統治時代に全ての文化を破壊されてということにされるのだろうか。最近李舜臣も担ぎ出されて、国を守る軍神として・・・儒教に軍人を神様とする考え方があるのかどうかは知らないが、この李舜臣を戦の神様として礼拝したのは、日露海戦に向かう日本海軍であって、李舜臣は李朝では目立ちすぎて冷遇されていたはずである。その歴史認識に真実はどこにあるのか。まぁ何を言っても無理は無理。最近の経済産業省とのやり取りも、韓国側は嘘をつき通そうとしている。10年嘘をつき続ければ、嘘も嘘ではなくなるらしいが・・・

 

2019年7月13日土曜日

小村寿太郎のこと

 続いて司馬遼太郎の『アメリカ素描』から。小村寿太郎(1855~1911)という名前を知っている人は、今の時代にどれほどいるのだろうか。

 『日本慈善基金』は、今現在存在しているのだろうか。小村寿太郎の誠実さは、1980年まではニューハンプシャー州で日本慈善基金として生き続けていた。当初は『露日基金』という基金であったが、1917年のロシア革命後、ロシアからの利息(ロシア国債)が来なくなったため、またソ連に対して1961年、国債の復活を依頼したが返事がなかったため、1963年州議会で『日本慈善基金』と改称されたという。

 日本は、太平洋戦争中とその後の9年間、利息の支払いを停止していたが、1951年(昭和26年)から利息の支払いを再開し、支払いを停止した9年間を補填するため、9年間は倍額の支払いを続けた。

 生前小村寿太郎は、外交は誠実以外にないと口にしていたが、その誠実さは今も日本基金という名で生きているのか、確かめるすべはポーツマスの公立図書館に行くしかない。

2019年7月12日金曜日

南牧村 かあちゃん本舗

道の駅 なんもくから
群馬県の南牧村、かあちゃん本舗の『みそ紫蘇巻』を目当てに出掛けてみたが、日照不足のせいで紫蘇が育たない、ということで、帰り道の道の駅しもにたで購入。

 小さいころ、母親が作ってくれたものは、味噌に胡麻やみりん、砂糖などを加えて練ったものを紫蘇で巻き、フライパンで焼いたように記憶しているが、味噌の辛味が強くて、食べにくかったのを覚えている。

 数年前に、南牧村出身の人から頂いた『かあちゃん本舗』の紫蘇巻は、その母親が作ったものと同じような味がして懐かしかった。その南牧村出身の人の本が、下記の『木を変える』。この人が加工した大量の竹は、愛知万博で日本館の繭のような外観を作り上げることになる。南牧の道の駅は、まだ南牧村の取っ付きで、まだまだ山は深い。 

2019年7月11日木曜日

人手不足と言うけれど・・・

 同じ町のコンビニの店員。スリランカ、ベトナム、モンゴル、バングラディシュ、インドネシア、ネパールと国籍も色々。経営者は知っているのか、彼らの間では働く場所の状況はネットを通じて共有されている。コンビニならどこで働いても同じではないのだ・・・ということを彼らは知っている。

 高齢者の雇用も同じで意外なネットワークがある。悪い噂はあっという間に広まり、そんな所は人手不足とうそぶくことになるのだが、その時にはもう何をしても人は集まらない。そんな会社が辿る道は労務倒産でも何でもない、経営者、もしくは現場の責任者が労働者からNO!と言われたに過ぎない。

 よく仕事は選べるが上司は選べないというが、アルバイト、フリーターは上司を選べる自由がある。とは言っても、なかなかうまくはいかない。運不運は人生にはつきものではあるが、不運を嘆いても運は向いてこない。

ビール・発泡酒・第三のビール

 久しぶりにビールを飲んでみる。うまい!とは思うのだが、発泡酒と第三のビールとどこがどう違うのかと言われるとちょっと困る。ちなみに4~5種類のビールから第三のビールまで並べてどうだと言われると、判断の付かない時もある。微妙に後味が違うのか、コクとかよくわからなくなる。こんな奴は、安いのを飲んでいればいいのだとも思うが、どうにも腹立たしい。

 ちょいと家内に聞いてみると、厚みが違うらしい。私よりは酒にも強いし、調理師でもあるし、味に関してもうるさい所がある人だから、やはり違うのだろうと思う。厚みってのがよくわからないが・・・

 以前にも書いたことがあるのだが、司馬遼太郎は『アメリカ素描』の中で、小村寿太郎(1855~1911)の書生桝本卯平につて触れている。桝本卯平は駐米公使としてアメリカにいた小村寿太郎の紹介書を持って、フィラデルフィアの造船所で職工として働くことになる。職工の給与は安い。食事付きで週5ドルの下宿に住んだ桝本の給与は、下宿料を払ってしまうと週2ドル70セントしか残らない。しかし、わずか5セントを持って行くだけで、小売りの酒屋でビールがたっぷり飲める。それだけではなく、酒屋には大皿にたっぷりとビーフ、ハム、サンドイッチ、チーズといった、当時日本では第一級の御馳走が盛り上げてあり、いくら食べても無料であった。日本の明治30年代では、酒屋に紅ショウガや味噌が置かれていたころである。桝本は、この『タダ』ということを、『自由』と理解した。以下桝本は『その自由があるので、米国では労働者に不平が少ない』と述べる。

 そこまでとは言わないが、ビールくらいせこいことしないでいっぱい飲ませろよと思うし、ビールの税金を上げて搾り取る役人は『自由』の敵だと思う。  


 

三国志 (北方謙三著 巻5から)

余分な説明は省いて、成玄固と曹操の会話。
(中略) 自分(曹操)がどこかの戦場で果てたとして、心の中では生き続けている、と言ってくれる人間が何人いるのか。
「おまえは、自分の生を振り返ることがあるか、成玄固?」
「はい。そして、悔いてはおりません」
「そうか。ならばよい。わたしは、軍を退こう (中略)」
「ありがとうございます、曹操様」
「礼を言わねばならぬのは、私かも知れぬ。なにか、学んだという気がする。それがなにか、いずれ考えてみようかと思うが」
「御健勝で、曹操様」  隻腕の成玄固の潔さ・・・三国志は男気溢れる世界でもある。

2019年7月8日月曜日

あさドラ!

 浦沢直樹の久々の連載、ビッグコミックスピリッツの『あさドラ!』。すでに単行本が1冊出ているので、進行は早い。浦沢直樹の作品は、『パイナップルアーミー』に始まって、ほぼ全てを読んでいる。面白いし、描かれている女性がきれいandかわいい。

 ということで、もう一冊の作者は違うが『コウノトリ』という、やはり連載物で、これはモーニングに連載中。この漫画を読もうと思わない理由は、登場人物の表情が貧相であること。まぁ好き嫌いはあるのだろうが・・・


ライオンキング

 新聞の全面広告、『超実写版 8.9 劇場公開』。この作品はディズニーのものだが、手塚治虫の『ジャングル大帝』の盗作ではなかったのか・・・と調べてみると、問題が発生した後に手塚プロダクションが、『手塚治虫が生きていたら、自分の作品がディズニーに影響を与えたというならば光栄だと語っただろう』というコメントを出して鎮静化したらしい。(Wikipedia) まぁ大らかと言えば大らか・・・

2019年7月5日金曜日

笑府

 このところ、北方謙三の三国志を読んでいる。文庫本で全十二巻のうち、まだ五巻目だから先は長い。巻頭の地図の字が細かいので、拡大コピーが必要だと思いながらズルズル五巻目を過ぎ、それも何度か読み返すうちに、やっと中国の地名がすんなりとわかるようになってきた。今は呂布、孫堅、孫策、袁紹が消え、劉備玄徳と諸葛孔明が出会う直前。

 曹操、関羽、張飛などWikipediaで検索をかけながら読む毎日。北方謙三による名場面がちりばめられている。多少(いっぱいかも知れない) 日本人好みの脚色はあるとは思っても、それはそれ、中国の地理的なスケールの大きさに包み込まれてしまうように感じて読むことの妨げにはならない。

 中国という国は堅苦しさがあって、書物といっても漢字が並んでいるのをみると辟易としてしまうものだが、張飛を検索している際に下記のような本の存在を見つけた。『笑府』意外にも、この中には日本の落語の原題になった話が多いようで、 Wikipediaの張飛の項目に書かれている『落語 野ざらし』と同種の話しでも十分に笑えるものがある。岩波文庫では絶版になっているのか、中古しか手に入らないようで・・・


2019年7月3日水曜日

慈雨

 新聞の広告欄、『慟哭の人間ドラマ 時間と空間を超えたドラマは、驚きと感動の結末へ』 という見出しに、騙されてしまった。

  いわゆる刑事物は理想論のかたまりではあるのだが、やはり『驚き』『感動』とくると触手が伸びる。警察の本来の姿が理想だとしたら、ほんとの警察はどんなもんじゃろかと、やはり刑事物は、新宿鮫だなぁ・・・というのが読後の感想でした。


嵐山渓谷と本多静六

武蔵 嵐山渓谷
この京都の嵐山に似た景色を嵐山町と名付けるのは、本多清六という林学博士。造園家であり、株式投資家(Wikipedia)。その生涯は凄まじく、有名な日本の庭園のほぼ全てに関わっていると言っても過言ではない。

 嵐山町のHPを見ると、『嵐山渓谷は、岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織りなすみごとな景観と豊かな自然環境・・・』とあるが、左の写真の後ろは、河原一面バーベキュー場。近くのラベンダー畑の花の香りが最盛期を迎える時も、この河原一帯は豊かな自然も木々の景観も季節も関係なく、バーベキューの煙と肉を焼く香りに包まれる。

 本多静六博士の記念館は出身地の埼玉県久喜市菖蒲町にあり、生誕地には記念園、本多静六博士の森も整備されている。嵐山町にとって恩人とも言うべき本多静六博士。高齢者の雇用を推進しているラベンダー畑やバーベキュー場の是非を問う気はないが、博士が見てどう思うか。